A prologue.

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 蒸し暑い夜だった。昇って間もない月が、殊更赤く輝いていた。  虫の声一つ響かない月下、路地裏にこだまする足音と夜気を震わせる息遣い。どちらも速く、荒い。  うだるような暑さの中、なおも冷たいコンクリートの狭間を縫う人影が一つ。微かな光明に映える白い肌。栗色の髪と瞳。紫のイブニングドレス。  駆けながらも視線は絶え間なく辺りを探り、ドレスには黒ずんだ染みが歪なアクセントを刻んでいた。  女は、逃げていた。  女。その人影は女だった。十人と擦れ違えば性の如何を問わず十人が振り替えるであろう、美女と呼んで差し支えない上玉。ドレスの汚点さえも、彼女の美貌から差し引けば霞み果てる些事に等しい。  そんな彼女は、恥も外聞も知らぬ体で路地裏を駆け彷徨っていた。  ――何故か?  勿論、彼女が追われているからだ。  ――何故か?  勿論――  ――彼女が獲物だからだ。 「……ッは!」  灰色の森。彼女は一つ大きく息を吐くと、手近な幹に背を預けた。空を見上げた円い瞳に映る夜空は、その殆どが寂れた土くれに切り取られている。 「クソが!」  無論、赤い月光もその半ばが遮られていた。人の手から産まれ人の手で殺された街。彼女は今、死んだ世界のただ中に居る。  トーキョーN◎VA再開発地区。この場所がそう名付けられてから、とうに十年以上が過ぎた。官民ともに投資が途切れたこの一帯には、もはや公共のサービスが行き届いていない。警邏もまた例外ではなく、セキュリティランクは最低のレッドエリアである。  今ここに、生命の気配を発する者は彼女しかいない。  ふと辺りを見回せば追手の姿は見当たらず、聞こえるのは己の呼吸のみ。一帯は暗く入り組んだ廃墟の幾何学。少なくとも彼女からしてみれば、逃げるに易く追うに難い場所であるように思われた。  ここまで来れば流石に撒いただろうか?  レッドエリアでもとりわけ奥まった一画で、彼女は息を調えながら黙考した。或いは、土地柄に加えて一時の安堵を望む心がそう思わせたのかもしれない。  今一度大きく荒い息を吐き彼女は歩きだした。巨大な墓標と化した高層ビルを両脇に、ヒールの硬い足音を響かせながら。挟まれた音は反響し、鐘の音のように長く響いた。
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