A prologue.

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 そしてほどなく辿り着いた路地裏の交差点。岐路の中央で彼女は足を止めた。  いずれの道行きも狭く、暗い。追われる立場を考えればまさしく一寸先は闇に他ならず、それが彼女に躊躇と焦燥を抱かせた。抽象としての闇に対する不安と恐怖。それは彼女のある自負に触れ、自身への苛立ちを募らせる。  彼女は唇を引き結びながら握り込んだ左の繊手を振り上げた。 (アタシ! アタシは――)  俯いた顔、口の端。人間のそれとしては鋭利に過ぎる犬歯が一対、夜気を切り裂きながら覗いている。  ――『夜の一族』  それ即ち、人ならぬ彼女が連なる『アヤカシ』の血脈であった。夜の帳による抱擁を以て人心を蝕み誑かす者達。実質的にも概念的にも夜をその領分とする夜魔の血統。  その血脈故に持つ自負が今まさに彼女を苛んでいた。よもや『夜の一族』の血を引く己が―― 「――闇を恐れるなど!」  振り下ろされた左腕はおよそ人体が発すると思えない破砕音を轟かせ、その拳は発泡スチロールを殴ったかの如く易々と壁にめり込んだ。己への憤りを隠せない彼女をスポットライトが照らしだすように、柔らかな光が赤く降り注いでいた。  路を選べず一歩を踏み出せないまま、彼女は頭上を振り仰ぐ。視界の先、狭い夜空に浮かぶ月。それを見た彼女は口元を綻ばせた。  一つの『夜の一族』という括りにも多くの種が存在する。彼女が属する種族は月を象徴と仰ぎその加護と祝福を疑わない。加えて自らを貴種と位置付け、本能や習性に近いレベルで気高さと自惚れを同居させている。従って、彼女の種――少なくとも彼女――にとって月とツキは限り無く同義に近いものであると言えた。  物言わぬ満月はただ赤く輝きながら彼女を見下ろしている。故に彼女は今まさに奮い立ち、焦りを猛りに変えた。彼女の本質が生み出したマイナスがプラスに転じ、自身の失態を睨むばかりの視野が自信の回復に向けられてゆく。  所々の化粧が剥がれたまま月光にライトアップされながら不穏に不遜に嗤う相貌は、少女と呼ぶべき若さだった。妙に長く鋭い犬歯も、ともすればハジけたコスメティックの類と見られるかもしれない。  だが、そうだとするならば。  剥き出した犬歯の下側、唇から顎までを染めた口紅とは異なる二筋の赤色は果たして。  荒れた笑みを飾る両の牙もまた、月光を受けて赤く濡れていた。
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