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安っぽいインクの匂いと、湿り黄ばんだ紙の匂いが、肺を満たす。
酸っぱいような、それなのに温かな香りに、コンピュータ化が進んで、いつか本がなくなったりしなかったらいいな、と小さなお願いをした。
床に、消えかかった、子供の落書きが残っている。丸い本体に、左右の角が二つ生えている、変な生き物。汚い歪んだオレンジ色の字で、横に、「まろちゃん」と書いてあるので、ああ、このブス猫を描いたものなんだな、と納得する。なんだか微笑ましい。 ここだけ時間が止まってしまったかのような空間で、一度だけ深呼吸。
のんびりとした主人を見守る、商店街の人々の温もりに包まれている気がする、だなんて、男の台詞にしては少し恥ずかしすぎるな。
しかし、初めて来た本屋ではあるが、本当に愛されている店なんだな、とはなんとなく気づくことができた。同じ町にありながら、どうしてもっと早く来なかったのだろう、と後悔しなくもないが、残念ながら、「まろん屋」ブームの頃、俺はもっと別のものに夢中だったからな。
……いや。
「……もの、じゃない。か」
一つの顔が過ぎって、思考がだらり。劣化する。
それは一瞬だけで、すぐさま頭をがあ、と振って、気を取り直して書棚に目を遣る。
ここの店主は時代小説が好きだったのだろうか、妙に幕末云々というタイトルの背表紙が多い。
するすると視線を滑らせて、表紙買いするに値する本はないかと探してみる。さまざまなサイズと、さまざまな厚さの本が一緒になっているが、これはこれで、いろんな発見がありそうで面白い。
指先でどこまでを確認したか、品定めするように、古書を中心に見ていく。
その途中で、あ。と小さく漏らして、すぐさま息を留(と)めた。
どくり、どくり。心臓の収縮が止まってしまえばいいのに。耳の傍で急ぎ走る、ヘモグロビンの悲鳴が聞こえる。
そして、急に遣る気がなくなる。学校帰りの両足に倦怠感を覚え、ドアからびう、と入り込んだ、春の近い風に寒気がする。生暖かいのに、まだ北風が入り混じっている。
振りかえると猫の体もふんわりと橙色に染まっていた。
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