桜の君

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 夕刻。花が数片程しか残らぬ社の桜の下に果たして男はいなかった。 ――まだなのかしら。  先日、案の定家に帰ると帰りの遅さに父と母に叱られ、昨日は家を出れなかったのだが、今日の様にこっそりと、抜け出せば良かったかな。と後悔し、社を出ようとして鳥居を見る。 「……あ」 御座を担ぎ、酒瓶と朱塗りの盃を持った男がいた。夜の闇の中では、気が付かなかったのだが、男の首には大きな刀傷が横に走っていた。思わずお七の目が釘付けになる。 「……」 男はお七の視線に気付いて苦笑する。 「気になりますか?」 御座を敷き終わった男はお七を座らせて問う。 「ぇと……」 お七の目が泳ぐ。彼の過去に触れるのは良い事なのか……。 「……少し、昔話に付き合って下さい。聞き流してくれて結構ですから…」 男は淡々と語り始める。  下級武士である彼はその昔、さくらと言う名のこの時期に生まれた商人の娘が好きだった事。  身分違いの恋にどちらの親も反対した事。  そして、二人でこの時期に駆け落ちをしようとしたのだが、見付かって、この社の満開の桜の木の下で二人で首を同時に斬り合った。という事…… 「……医者が武家である私から診たのでしょう。私は助かり、彼女は死にました。私は家の恥といわれ、座敷牢に閉じ込められました。ただ、親父殿も人の子。彼女の命日に墓を訪ねる事も、夜、この桜の元でさくらを想う事も許して下さいました」 男はふいに空を見る。 「……」 お七は黙って聞いていた。そしてなんとも苦しい心持ちで、 ――ああ、まだ諦めていないんだ。  と思った。ふいに涙が込み上げそうになる。  男は盃に酒を並々と注いで、それから煽り 「今日は申し訳ない事をしました。私もまた、この縁に縋りたかった様です」 盃に酒を次、今度はしみじみと飲む。 「…最後に旨い酒を呑まさせて頂き、ありがとうございます」 「いえ、私は……。私こそ、ありがとうございました。楽しませて頂きました」 お七が頭を下げる。男は微笑む。 「楽しかったです。さ、そろそろお帰んなさい」 「……はい」 お七が立ち上がる。 「さようなら。お嬢さん」 「さようなら…お侍さん」 最後の一片が散る時、二人は夜闇に閉じ込められた。 (了)
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