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香る桜坂。
龍之介はゆっくりと、花びらの舞い散る坂道を歩いていた。
外に出るのは久しぶりだった。
家にいれば締め切り間近な原稿に嫌でも手をつけなければならない。
爽やかな風が頬を撫でる。
目をつむり、すっと息を吸ってみる。
甘い桜の香りがした。
腕を組んで下駄をならし、龍之介は上機嫌で坂道を歩いた。
このまま舞い散る桜と共に、花びらになってしまうような気がした。
それもいいと思った。
気づくと勝手に口が覚えたハイカラなウタを口づさんでいた。
あしどりは軽く、足はだんだんスキップを始めた。
『桜坂、通る麗人、男かな』
冗談めかした声で龍之介が一句読む。
我ながらひどい句だと笑いが込み上げてしまった。
桜がひとひら、龍之介の肩にとまる。
小さくはかない花びらは、龍之介に優しく語りかける。
『また来年も、あなたが見に来てくださるのを、待っています』
花びらは、はらりと龍之介の肩を離れ、宙を舞い、風に乗って次の街へと春をはこびにいった。
『ああ、来年、きっとまたここで』
桜吹雪の中で、龍之介はちぎりをかわす。
移り行く季節の中で、たった一時出会うことのできる、小さな恋人と。
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