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「そりゃあ、ご主人が元カノのことを名前の呼び捨てで呼べは、奥さんは面白くはないでしょうね」
「…………」
森川さんの一言に、言い続けようとしていたのを止めてしまった。
そして、あの人は何が言いたいんだと睨んでくる。
それに対して、森川さんも静かに睨み返しているけれど、表情は落ち着いている。
私はその様子をハラハラしながらも、ただ見ていることしか出来ないでいた。
ただ、どうして刺々しい言い方をしていたのかは漠然とだけど、理解出来た。
――嫉妬、なのかもしれない。
自分達の意思で結婚という道を選んだ夫婦という関係で、子供を育むことを選択したのだ。そのパートナーであるあの人が、私を名前で呼べば良い気持ちはしないはず。
母となっても、やっぱり女性であり続けていたい気持ちもあるのかもしれないと思った。
「貴方には関係は無い話でしょう」
「そうですね。俺は無関係ないが、……鈴音にも関係は無い」
え? 今、私のことを呼び捨てで呼んだ?
「竹本さん、でしたっけ? 俺の女にまだ未練でもあるのかな?」
繋いでいる手を強引に引っ張られて、私は森川さんの胸の中に飛び込むような形で抱き締められてしまった。
そのせいであのひとがどんな表情でいるのかは分からない。
森川さんの左胸に耳が当たっているせいで、一定のリズムで刻まれる鼓動が聴こえてきた。
その鼓動が現在の私には心地良くて、とても求めているもののように感じる。目をつぶり、右手でシャツの裾をしっかりと掴んでいた。
持っていたトートバックが床に落ちる音が聞こえる。
でも、そんなことどうでもいい。
……どうでも、いい……。
この現実から逃れられるのならば、どうでもいい。
「どうして貴方の名前を知っているのか、不思議そうな顔をしている」
「ええ、そうですね」
「俺の女と言ったでしょう。ということは、由香里ちゃんや千紗ちゃんとも知り合いになりますからね。鈴音がどれだけ傷付いて、立ち直るのに時間を要したのか知ってるし、見ているから」
「…………」
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