4.紫煙に包まれて、忘却しよう

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 そんなこと、伝えてない。  たぶん、紹介する前に由香里から私のことを訊いたことから考えて言ってくれているのだと思う。 「貴方が鈴音のことをどう想おうが勝手だ。だが、これ以上の迷惑は勘弁してくれ」 「…………」 「女々しい旦那をしっかり捕まえておいてくれよ。奥さん」  森川さんが背中を数度あやす様に叩いた。 「行こう。別の場所で買い物を続けようか」  その問いに、黙って幼子のように頷く。  また数度背中を叩き、森川さんは床に落ちたトートバックを拾い上げてくれた。その間に、私はあの人達の方向へ振り向いてみる。  男の子だと言っていた赤子は泣き出し始めていた。  あの人は睨み続けている。  その妻となったその人はさっきとは別人のように、戸惑いの表情を浮かべている。  未練があるのだとすれば、それは私も同じこと。  でも、どうしてだろう。  あの人のことに固執していた自分自身が、急に馬鹿馬鹿しく感じてきてしまうのはどうして? 「さようなら、竹本さん」  森川さんに手を引かれてその場を立ち去るとき、私はあの人達に初めて言葉を紡ぐことが出来た。  たった一言。  あのときに言えなかった別れの言葉だ。  女としての意地だったのか、言い返したいという気持ちもあった。未練があることを知られたくなかったからか、名前で呼ぶことはなく、敬称で呼んだ。  でも、反対の気持ちもある。  どうか私のことは忘れて欲しい、と。  違う道を選んだのだから、あの人に幸せになって欲しいと願う。  ……綺麗事であることは、承知している……。  でも、そうなって欲しい。陽だまりのように笑っている顔が好きだったから。  たくさんの意味が混じっている一言だった。  それに対する返事は、あの人から聞こえてこなかったけれど。エスカレーターを降りて歩き続けながら、何度もその一言を心の中で呟いていた。
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