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その時、ふと気付いた。
男の顔が目の前にある。それなのに、僕にはその顔がはっきりとは見えない。
男の声は聞こえている。けれど、僕にはその声がどんな声なのかわからない。
自分でも気付かないうちに身体が震えていた。
それに気付いた途端に、奥歯がカタカタと音を鳴らし始めた。
喉がカラカラして声が出せない。それなのに手の中は汗でべっとりと湿っている。
黒いステッキが僕に向けられる。
「さあ、君はどちらを選ぶ?」
ステッキの先についた水晶に、僕の見開いた目が映りこんでいる。
それは僕の知っている僕のようで、僕の全く知らない僕だった。
「私に聞かせてくれ。君の選択を」
水晶の中の僕の瞳に僕の姿が見える。僕の意識が僕の瞳の中の瞳に吸い込まれていく。
僕は自然と質問に答えていた。
「……僕は――」
男が本性を現したかのように大きく歪んだ笑みを浮かべた。
「――ようこそ。我らのアルカディアへ」
僕らが決して通ってはいけない扉が、静かに開かれていく音を聞いた気がした。
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