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「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせてそう言って、それから彼は立ち上がった。ソファに投げ出してあったジャケットを羽織り、床に転がしてあった通勤鞄に手を伸ばす。
「俺、一回家帰るからこれで。ありがとう」
「あ、うん」
別に見送る必要は全く無いんだけど、わたしは何故か玄関へと歩き出す市川くんの後を追う。背中で気配を察知した市川くんは、わたしの方に振り返り、それから腰をかがめた。
キスをされるのではないか、と思うくらいの距離だった。
強ばったわたしの頬を通りすぎた唇は、耳をくすぐるくらいの場所に留まる。
「今日はあの匂いしないね」
何を言われているのかすぐには分からず、わたしは間の抜けた顔で市川くんを見上げた。
彼はドアノブに手を伸ばし、「またね」と無邪気な顔で去っていった。
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