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吉田はすっかりそっくり失念して居た。
なれば、覆い被さる丈夫が、突如頭上を越えて行けば、神無月とて口唇も半開きの。
忘れ形見よろしく己が上半身に残る彼の得物を見遣れば、彼女の視界の隅には、何やら見た事のある男が映るのだ。
尚且つ「兄貴」と、聞き覚えのある野太い音に、何か哀れを誘うばきり、と言う音が神無月の耳に漸う届けば、幽囚の身の如く吉田元いイズミに囚われていたのだと分かる物で。
「あぁ!?此の男色変態野郎!様ぁ見やがれ!兄貴、御無事っすか!」
「何だ居たのか。はて抑、君は誰だ」
「ちょ、兄貴ぃ其れは酷いっ……すうぇ、え?あに…………姉貴!?」
「姉貴?まあ、至当な反応ではあるが、姉貴か、」
なれば、正気付いた神無月が応じるや否や、桁外れな速さの腹這いを見せるのは無論、彼女の安否を気遣う相太である。
然れども、神無月の下へと這い寄る彼が、青虫も吃驚の腹這いを止めるのも、兄貴と慕う存在の、肌蹴た半身に2つの御山が聳え立って居れば、尤もな話。
顎がすとん、と落ちるのも、相太であった。
其の彼女の姿を見た相太の口唇は、わななと震え、畜生、と叫び憤懣を表す様であれば、神無月は冷ややかな眼で彼を見下ろし、勝手な物よ、と小さく呟くも。
「兄、姉、兄貴?姉御?畜生!何て呼びゃあ良いんだ!」
「……は?」
処がどっこい相太の憤懣、神無月の思う所と何か違えば、彼女の口唇からは腑抜けた疑問符が漏れるのだ。
「御嬢?頭?違ぇ……何か違ぇ……大将?大将!」
「……」
而して、何やら独り大将連呼で盛り上がる相太に、先刻とは別の意を含んだ冷ややかな眼を送る神無月は、己を助けた彼よりも、消えた彼が気掛かりであれば、眼をきょろりと周囲へ配る。
「御、前……」
然らば、己で開けた床穴より、禍々しい声音が聞こえれば、四方やと述べるべくか。
神無月が奈落の底の如くぽかりと開いた其処を見遣れば、先刻よりも幾分か拡がりを見せて居た、穴が。
なれば、地獄の底穴から這い上がる鬼の如くした彼は、果たして真にイズミか。
なれば、殺気に満ち満ちた彼は、己の知る彼と異なる人斬りの眼であれば、真にイズミか。
唯、今し方二言三言交わした会話は、紛う方無くイズミしか知らぬ事なのだ。
「如何言う……イズミ、」
然らば、自身の理解を超える眼前の存在に狼狽すれど、彼女がイズミと呼ぶのは大凡。
真偽は如何であれ、彼女の願望であろうか。
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