荒唐無稽な御伽の様

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如何ばかりの時を経たのだろうか。 静寂が降り落ちる音無の廃家は、複数人の視線が絡み合っていた。 然らば、誰人かは男を守らんと、ぎちりと腕を容赦無く扼して獣の如く威嚇し、誰人かは四方や己が庇われるとは思いもせんと、半笑を浮かべる。 そして、誰人かは何を血迷ったかと、疑念の眼を女に向け、誰人かは斯様な局面に己は色違い過ぎる、抑の話何故俺は此処に居るんだっつうか忘れ去られてないっすか、と悶えるのだ。 「斎藤、其の刃を収めぬならば、君を、」 「正気、か……」 其の静寂の雨がしとりと降り落ちる場に、硝薬の臭いが鼻を打てば、斎藤が眉を顰めて神無月の口吻を遮るのも、彼女の次に紡がれる言辞を汲み取る事何ぞ造作無く。 雨が止んでしまった目下、硝薬が点火するのも易し。 なれば、ぎちりぎちり、と扼する手の力は増し、もう一方の腕で己が腰の得物を握る彼女の行いは、硝薬へと繋がる導火線であるのだ。 然れば、狼狽える斎藤を尻目に此れ今よ、と。 軽捷な身の熟しで神無月の背後に回り、彼女の首を腕で羽交い絞めるのは吉田であった。 得物を彼女の腹部に当て斎藤を牽制しつつも、彼が欣快の至りとくつくつ哄笑するならば、知らぬ間にやら彼の手中に導火線が握られて居るのだから驚き入る。 「っふ……ねぇ、此れ知ってる?瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず、って詩」 「古楽府だろ」 「そ、だったらさ。狐疑を掛けられる様な事、しない方が良いんじゃないの?」 而して、馬鹿でしょ、と一歩又一歩と戸口に向かいて後退する彼は、神無月の耳元で私語めけば、何かを思い起こしたのか嗚呼、と小さく鳴いた。 「然うだ……今し方、話してたよね。俺が望む事、御前に言って無かった」 然らば、何故今か、と訝しむ眼を向ける神無月を余所に、吉田は見せ付ける様にして、彼女の首筋に噛み付くのだ。 欲しい、あんたが欲しい。 其の首筋に伝わる振動は、確かに然う震えた。 今般は廃家の誰人の耳にも届く音で、先刻の忠言の後であるのに掌を返した様な言辞を発し、果ては所有物と言わんばかりに彼女を扱う美丈夫には、皆々総じて虚を突かれる物で。 「イズミじゃないか……」 ずるり、と虚脱して座り込む神無月を其の儘に、吉田は廃家を後にした。 「欲しい、ね。確かに、欲しいよ。けど、巫山戯るな。俺と御前は違う」 唯、彼が闇夜に紛れて零す音は、彼女の思考するイズミでは無く、吉田なのだ。
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