彼の始まり

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この館の中で、一番に近寄りたくない場所。 父の書斎。 黒い外套(ガイトウ)を脱ぎ、久しぶりのタイを正してノックした。 荘厳な室内の、正にその主といった父が、深刻な顔して座っていた。 「あぁお前か。 よく来てくれた。 時間がない。裏庭のセスナにお前に守ってもらいたい物を、あらかた積ませてある。 お前にも思い出や大切にしていたものが有るだろう。 急いで積んで来い。 終わったらここに」 訳が分からなかったが、父の顔が青を通り越して緑の苔生(コケム)した色をしていて、ただ事ではないと俺は父に従った。 子供の頃からのお気に入り。 空の写真集や、初めて自分で買った青い絨毯。 野球のボールに母さんの形見のオルゴールや姿見。 そんな変なものしか思い浮かばず、それを運ぶ。 退役を視野に入れていたので、乗ってきた車には ここ最近の衣類など生活用品を積んでいたので、一応それもセスナに放り込んでおいた。 セスナ社の小型旅客機が本来セスナと呼ばれるのだが、このセスナは他社の特注品だ。 いつからか小型旅客機全般がセスナと呼ばれるようになった。 その、セスナの客室部分が満杯になり、そのどれもが高価なものだったり母さんに纏わる物だったので、俺は言い知れぬ不安に駆られた。 父は愛妻家だった。 いや、母さんを何年も前に亡くしても、今でも愛妻家と呼べる程 母さんの思い出を大切にしていた。 その父が、そんな大切な品をこの館から持ち出そうなんて普通ではない。 館の中は静まり返り、使用人の気配が無かった。 これから大変なことが起きる。 漠然と、そう思いつつ足はまた父の書斎へと向けていた。   *
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