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遠くで聞こえるのはいつもの目覚まし時計の音ではなかった。
「長い昼寝だな」
窓際で煙草をふかす男に見覚えはない。目元にかかる前髪に寝癖、黒いPコート、いかにも怪しい風貌だ。
「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」
「は?」
一瞬、何を言ったのか理解できなかった。難解な呪文のようだとしかわからなかった。
「有名な句さ、皆川彩香」
「な、なんで私の名前を……!」
いよいよ怪しい、彩香が身構えると男は大げさに両手を挙げて話し始めた。
「俺は九郎、今からアンタに話さなきゃならない事がある」
「いい話しではなさそうな口振りね」
「可愛くないな、アンタ。よく言われないか?」
余計なお世話だ、そういわんばかりに彩香は男を睨む。
「ああ、それで話しってのは……アンタ、遺言はないか?」
「遺言、なんて……死ぬわけじゃあるまいし、冗談はやめて」
「死ぬじゃあない、死んでるんだよ」
今度こそ冗談じゃあない、と彩香は言う。しかし、その顔は青ざめていた。
ふいに脳裏をよぎる赤い記憶が彩香にのしかかる。
「彼は、ねぇ……彼はどこ!?」
思い出した、泣きそうな声で彩香が叫ぶ。九郎に掴みかかりそうな勢いだった。
九郎はガラス玉のような感情の読めない瞳でそれを見つめていた。混乱し激昂するその姿が理解できないというような、そんな印象を受ける表情で彩香はぞっとした。
「目、閉じろ」
得体の知れない恐怖に意識を持っていかれていたせいもあり、返事をする事すらできないままほんの一瞬、視界が闇に落ちてすぐに明るくなった。眩しさに目を細めた彩香が、白いベッドに飛び付いた。
「誠人!」
青白い顔に包帯やガーゼが痛々しい。微かに上下する胸に安堵すると同時に彩香はすり抜ける手を握りしめた。
「そっか、私……事故で……」
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