落花流水

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大通りを抜けて、細い路地に入ると、自然と歩調が遅くなる。 そう自覚したのは、ずいぶんと昔。 住宅密集地の中の、古い一軒家。そこが私の家。 黙って玄関のドアを開ける。 「帰ってきたの?」 即座に飛んでくる、ヒステリックな声。そしてばたばたと玄関に出てくる、義理の母。 「どこに行ってたの。朝帰りなんて、一体誰に似たんだか……」 甲高い声でまくしたてる。内容は説教か愚痴か嫌みか。いつものこと。 我慢していれば、そのうち終わる。そう自分に言い聞かせるのも、いつものこと。 言いたいことを吐き出し尽くすと、義母は居間に戻っていく。 靴を脱いで、二階への階段をかけ上がった。 自分の部屋に入って、鍵をしめる。 ……もう、嫌。 叫び出したい衝動も、今では起きない。 心は、ずっと昔に干からびてしまった。 布団の上に倒れ込む。 シャツからほのかに柔軟剤の優しい香りがした。 はっと思い出して、ジーンズのポケットを探る。 出てきた、一本の鍵。 『よかったら、持ってて』 わざわざ私を追いかけてきて、これを渡してくれた貴方。 自分のベッドを私に譲って、一晩一緒にいてくれた、貴方。 嬉しかった。だけど。 ……私じゃなくても、誰にでも、そんな風に優しくするの? そんな嫉妬めいた気持ちが、心を覆ってしまう。 すごく嬉しかったはずなのに。どうしてこんな捉え方しかできないんだろう。 醜い自分。 ……貴方に、私は相応しくないよ…… 貴方の優しさが、怖い。 今まで、欲しいものはなにひとつ手に入ったことがないから。
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