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たとえば、夫婦の片方が障害者である時、隣人たちは、健常者の方に話を通して、終わろうとする。
夫婦のどっちかに伝えりゃいいだろう、それはひとつの常識である。
だが、聾者の妻しかいない時間帯がある。
果たして、妻しかいなくて、相手は、メモし始める。そのメモに用件が書いてあれば普通の筆談であるが、「夜、ご主人が帰られる頃にまた来ます」とあると、どれだけ聴覚障害者が傷つくか、隣人は理解がない。差別していると言うよりは、想像力がないのである。
あらかじめ、用件を書いた紙があれば、用は足りる。今は携帯メールでかなり改善された。手話が出来なくても、携帯メールが打てる者は聾者とコミュニケーション出来るようになった。若い人は、「奥さんのメアド知りません。奥さんに転送願います」なんて、こっちにメール送ったりする。見ると、俳句の会の案内である。
隣人は悪人ではない。日本の労働事情が、日本の労働者に、時間のかかる会話を聾者と交わす心の余裕を与えないのである。手話教室へ行こうという発想も与えないのである。
企業さえ儲かれば良いという、日本の経済神話が、障害者を排除する。
そして、儲ければ、金で済ませられるという発想、これが、食っていけるだけの保護費はやるから、社会に出てくるなという発想につながっていく。
保護費が高かろうが低かろうが、障害者がひとりぼっち、は、変わっていない。
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