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人里からどれくらい離れたところだったでしょうか。
名もない谷がありました。
なにしろ人が住むところからは遠く、とても遠く離れてそれはあったので、名付けられることもなかったのです。
その谷には水は流れていませんでした。
昔々のいつかには豊かな流れがあったのかもしれませんが、今ではなごりとばかりに小さな湿地があるだけで、春になっても雪解けに岩ばしる水の音や、我も我もと遡る魚の群れの跳ねる音を聞くことはできないのでした。
でも、小さな湿地はあったのです。
谷をよろう岸壁には硫黄でも混じっているのか、荒々しく剥き出しだ岩肌はそのままに、緑を拒んで永いのでしたが、谷あいのその湿地には緑がありました。
丈の低い短い草々が、ゆうべ生まれたあかんぼうのように、若々しく柔らかな葉をせいいっぱいに伸ばしています。
それら若草たちの中に、ひとつだけ、見た目の違う草がありました。
周りの草を見おろすほどにながい茎をゆったりと伸ばして、白い花が、天の高みをなめてゆく太陽をあおいでいました。
花はいつも空をながめていました。
太陽を見つめていました。
谷の崖は切り立って深いのです。
太陽はきまってひじょうにゆっくりとゆくのですが、風が運んでくる雲につぎつぎと隠されしているうちに、崖の向こうへと去ってゆくのでした。
五枚の花びらをゆらしながら、花はいつも思っていました。
あれこそは天に咲く花。白い花。わたしと同じ白い花。
花はうれしかったのでした。
自分のような花を、花は地上についぞ見たことがありませんでしたので、たったひとつとはいえ、よく顔を見せてくれる花の空にいることは、とても心強く思われるのでした。
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