ねじまき鳥クロニクル

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ねじまき鳥クロニクル

 台所でスパゲッティをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。それはスパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。  電話のベルが聞こえたとき、無視してしまおうかとも思った。スパゲティーはゆであがる寸前だったし、クラウディオ・アバドは今まさにロンドン交響楽団をその音楽的ピークに持ちあげようとしていたのだ。しかしそれでもやはり僕はガスの火を弱め、居間に行って受話器をとった。あるいは新しい仕事の口のことで知人から電話がかかってきたのかもしれないと思ったからだ。 「十分間、時間が欲しいの」、唐突に女が言った。  僕は人の声色の記憶にはかなり自信を持っている。でもそれは知らない声だった。「失礼ですが、どちらにおかけですか?」と僕は礼儀正しくたずねてみた。 「“あなたに”かけているのよ。十分だけでいいから時間を欲しいの。そうすればお互いよくわかりあうことができるわ」と女は言った。低くやわらかく、そしてとらえどころのない声だ。 「わかりあえる?」 「気持ちがよ」  僕は戸口から首をつきだして台所をのぞいた。スパゲティーの鍋からは白い湯気が立ちのぼり、アバドは『泥棒かささぎ』の指揮をつづけていた。 ――言わずと知れた(と思われます)村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の冒頭です。 たまには日本人作家を、と思って模写したんですが、写してる最中、すっごく心地よかったです。 もうこの人の文章は、一言で言えば「極楽」ですね。 ナチュラルで温かみのあるリズムに、僕は居心地のよさすら覚えます。 とにかくなめらかに機転が利いてますよね。 尋常じゃないくらいかろやかですよお。 むかいくる文章の波をスイスイと乗りこなしているような感じもします。 危険な線だって必要あらばタッチしてくれますしね。 静かに魂を宿しながら、セッションしてるような印象も受けます。 プロ中のプロ。 自身の文章の体をとってもいたわってますよね。 組織構造を理解し、巡りをよくした、実践的な文章に思います。 たしかな吸収性、さらには同化力すら感じえます。 トンチがかった「悟り」の文体ですねえ。
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