初めて物語

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緋くん。 茫然自失で時の流れから置いてきぼりになっていた俺の耳に。 あっち向いたままの背中越しから、名前を呼ぶ声が聞こえた。 「へ」 返事で出た声も、なんだか間抜けなもんだ。 いいや、そんなのはもうどうでも。 「どういうやり方ですればいいのか分かんねえから、…俺だって怖かったんだよ」 「…え?」 やり方? やり方、て。 キスなんて、唇を近付ければ自ずと自然に出来るものだと思うんだけど。 確かに、そんな最初から目も飛び出すほどのテクニックなんて俺持ってないし。 過大な期待されるとそれはそれで困るけど。 「緋くんも、そのつもりで来てくれてんのかと思ったからさ。ごめん…な」 なんか、勝手な怒り方しちまった、て。 反省をした表情で俺の方へと振り向いた。 「ごめん」 ……碧君。 なんだか俺もさ。妙な緊張に縛られちゃって。 変な空気感、出しちゃってたかも知れない。 「ううん。…貴方が謝ることないよ」 「そう…?」 「うん。…だって、俺だって、本当は下心あったからね」 だから、おあいこ。 「下心?」 「そう、下心。だから、ごめんね碧君」 ホテルの部屋で、暗闇のなか。 おかしなシチュエーションで、おかしな謝り合いをして。 息苦しかった緊張は、知らないうちに解けていった。 「緋くんの下心、てなんだよ?」 先程の、俺の質問のやり返しだろうな。 碧君が、笑った顔して訊いてくる。 「貴方と、同じ事だよ」 キスの仕方が分からない、なんて。 心がくすぐったくなるようなことを言う。 「俺と同じ?」 本当に、可愛い人。 「うん」 でも、それはまた今度。 お互いの気持ちが寄り添い合った時に。 美しい風景にでも囲まれて、ゆっくりと近付いていこう。 焦ることなくね。 「だったら、しない理由ないじゃん」 「ん?」 しない理由ないじゃん? て? 「俺の覚悟、無駄にならないように…、緋くん」 無造作に横たえていた俺の手に、ひんやりとした碧君の手が重なった。
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