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洗い物に洗濯を慌ただしく終え、稽古着に着替えると私は急いで道場に向かった。
今日は斎藤となので、絶対に遅刻などというヘマは冒せない。
しかし、こういう時に限って非日常はやって来る。
「あら、朔様。そのお姿……噂通り、剣のお稽古をされているんですね」
前川邸の門前を横切っていれば、そう声をかけられた。
その声にすぐに誰だかわかり、私は焦る心を片隅に追いやり、振り向いた。
「梅さん、こんにちは。姿は何度か見かけてたけど、会うのはあの日以来……かな」
「そうですね。なんだかすごく懐かしく感じます」
「それだけ、芹沢筆頭局長との思い出が濃いってことだよ。上手くいっているようで良かった」
「心配して下さっていたのですか?」
「そりゃ、あの場に居合わせたわけだし」
「ふふ、そうでしたね」
そこで一旦会話は途切れ、私は一度道場へ目をやった。
がやがやした空気から、稽古はまだ始まっていないようだ。
ほっと一安心して再度梅へ視線を移すと、八木邸を見つめ、幸せそうに微笑む姿があった。
今までで見たことのない顔つきだ。
「梅さん、幸せ?」
「はい、幸せです、とても」
「なら良かった。それじゃあ、早く幸せのもとへ行かないとな。オレも、そろそろ稽古だし」
「あら、お引き止めして申し訳ございません」
「いや、こちらこそ。じゃあ」
片手を上げ、私は道場へ急いだ。
梅の笑顔を見て、こっちまで幸せな気分になる。
朝の嫌な感じは胸に残っていたが、この時は幸福感が勝っていた。
しかし、そう良いことは長くは続かないのが人生というもの。
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