『世界』

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 しばらく階段を下りると、最初にいた木の階段が見えた。木の階段は、やわらかで暖かな光を放っている。まるで、ずっと前から知っている人と再会したような懐かしさを覚え、ボクは木の階段に足をかけた。足にぐっと体重をかけると、やわらかな感触が足の裏に伝わる。木が、ボクを受け止めてくれているのが分かる。さらにボクを襲っていた軽い目眩も嘘のように引いていった。  誰もいない心細さの中で出会った温もり。  この温もりに、ボクの全部を預けてしまいたい。  もう独りは嫌だ。  そう強く思った直後に、ボクは木の階段から足を離した。  今ここで木の階段の温もりに身を預けたとしても、結局一人ぼっちのままだ。怯えて立ち止まってしまったら、何も変わらない。この気持ちのままで木の階段に戻ることはできない。  そう思い直し、軽い目眩とともにザリザリする鉄錆の階段を再び下り始めた。  ずっと階段を上ったり下りたりしていたからなのか、それとも強い不安のせいなのか、ボクの背中を大量の脂汗が流れた。どこからともなく吹いてくる湿度を帯びた風で、脂汗で濡れたTシャツが中途半端に乾かされ、背中にベッタリと貼りついて気持ちが悪い。 《すごく蒸し暑い。涼しい風が欲しいな……。》  ボクは思わずつぶやいた。  ここに来て初めて出した声だった。しかしボクが発した声は声ではなく、耳に水が入ったときのようなくぐもった音だった。  別の誰かが発した音のような響きで、本当にボクのノドから出たのか分からない。この空間が、吸いとったボクの声を別の場所で放したような響きだ。  もしかして、この空間そのものが大きな生きものなのだろうか。声すらも、くぐもった音に変えてしまう、ひらけているのに孤独で閉ざされた空間。でも時計の音だけは、空間中響き渡っている。気持ち悪い。 《もう嫌だ、もうたくさんだ! ここはどこ? どうしてここにいるの? ボクは……、ボクは……、》  孤独と不安が限界を越え、狂ったように叫んだそのとき、ひとつの疑問がボクの心にふっと姿を現した。  ──ボクは、誰?  ボクは、『ボク』が誰なのか知らなかった。  途端に自分が不安定な存在に思えて怖くなり、腰の力が抜けてその場に尻もちをついた。鉄錆のザリザリが、むき出しで汗まみれの脚にまとわりつく。  ボクは、あまりの気持ち悪さに飛び上がるように立ち上がった。呼吸を整えながら脚についた錆を丁寧に拭き取り、ため息をついた。  恐怖も不安も孤独もそのままだけど、今ここでそれを爆発させてみたところで、何かが変わるわけじゃない。ボクの存在が不安定に思われても、ボクがここにいるのは間違いないから、ボクが何者であっても、ボクは、ボクだ。  ……時計を、探そう。  下るよりなら上るほうが気が楽だな、上を向いていられるから。  ボクは、階段を下りるのをやめた。この階段だって、どこまで続いているのかも分からないし、下り続ければ時計に出会えるという保証もない。  それならばせめて、上を向いて歩こう。  ボクは一歩一歩踏みしめるように階段を上り始めた。  時計を探す理由は分からないけれど、この空間から出るためには時計を見つける必要があるのだと、ボクの心が訴えている。 《早くここから出なくちゃ。》  ゴールの見えない階段を見上げた。どこまでも続いているように見える。上っても上っても、周りの景色は変わらない。 《この階段、どこまで続いてるんだろう。本当に進んでいるのかな。》  真っ白空間に真っ直ぐ伸びる朱色(あかいろ)の階段を、ボクは首をかしげながらも、ただひたすら足を運んで上り続けた。
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