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「ただいま」
川島は独り言のように呟きながら玄関を開けた。
「おかえりなさい」
由紀子は玄関まで迎えに来て言った。
「あなた顔色悪いわよ。どうしたの?何かあった?」
「いや、なんでもないんだ。ちょっとね、事故った」
憔悴し切った表情で、喉の奥からひねりだすように潰れた声で川島は答える。
「ちょっとって・・・、なんでもなくないじゃない。事故って車で?大丈夫なの?」
「お前はこんな時でも車の心配か?」
「そんな事言ってないでしょ?いつ私が車の心配したって言うのよ」
「疲れてるんだ。そっとしといてくれよ」
酒の匂いに顔をしかめながら由紀子が言う。
「お酒飲んだでしょう、駄目じゃない車で・・・」
川島は靴を脱ぐと、まだ口を閉じない妻を押しのけるようにして部屋に入った。
ネクタイを緩めながら居間へと向かう。
そのまま倒れるようにソファーへ腰を降ろし、スーツのポケットから煙草を取り出し火をつけた。
煙を深く吸い込むと、両手で顔を覆った。
由紀子は憔悴しきった夫の様子を、ただ心配そうに見つめていた。
翌朝、黙ったまま朝食を済ませると、目を合わせないまま由紀子が言った。
「ねえ、保険会社には連絡したの?事故の原因とか説明しないと」
川島は黙ったまま、煙草に火をつけた。
「私にはそうやって黙っててもいいけど、保険会社にはちゃんと話してよね。それ位できるでしょ?」
肺に入った煙を無理矢理吐き出しながら川島が言う。
「俺はしこたま酒を飲んでいた。残念だが保険は下りない」
「どうするのよ?車はちゃんと動くの?これから会社へはどうやって行くの?修理するお金なんて家にはないわよ?このマンションだって買った時の半分以下の価値になってるのに、ローンはほとんど減ってないのよ」
「そんな事は君に言われなくても分かってる。君が心配してる車は無事だよ。バンパーが派手にひしゃげただけだ」
「私はなにも車の心配だけをしてる訳じゃない。私はあなたの事を・・・」
「俺の事より、金と車の心配だろうよ」
川島はそう言うと乱暴に煙草を消しながら立ち上がる。
「待ってよ、話はまだ」
由紀子の言葉を遮って背広を着ながら川島が言う。
「今日から電車で会社へ行く。もう出ないと間に合わないんだ。君でもそれ位分かるだろ?頼むから朝くらいは静かにしてくれ。仕事前に余計気分が落ち込む」
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