シュレディンガーの女

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ようやく仕事を終えて家路へと向かうサラリーマンの群れの中に川島はいた。 誰もが下を向いて背中を丸めて歩いている。   くたびれた背広と同じような表情を浮かべた人ごみの中、家路に帰る喜びを噛みしめる事のできる人間はどれくらいいるのだろう。   酔って事故を起こした二年前のあの日から全てうまくいかない。   今日は抱えている企画の最後のプレゼンだったが、どうせ今回も駄目だろう。   川島が自宅マンションを見上げる頃にはすっかり夜のとばりが下りていた。   有名デザイナーが設計したというマンションはいつもと同じように、眩い夜空の中にその姿をさらしている。   購入当時の誇らしい気持ちを思い出す事はもうない。ただ川島の気分を重くするだけだ。   「ただいま」   小さく呟きながら玄関を開ける。居間の電気とエアコンをつけると、まっすぐにベランダに向かった。 煙草をすい終わる頃には部屋もそこそこ暖まる。   地上20階から眺める景色は美しい。この美しい夜景を見ながら一服するのが川島にとって一番安らげる時間だった。   胸ポケットから煙草とライターを取り出す。「くそっ」思わず毒づく。ラークマイルドは空だった。どうする?今から降りてコンビニに行くのは億劫だった。諦めて風呂に入って寝るか。ついてない。「畜生!」声を荒げた。 「どうかなさいました?」 川島は驚いて声の主を探す。声はとなりのベランダから聞こえた気がした。目を凝らすと闇に浮かぶ小さな光が動くのが見えた。火のついた煙草の明かりだ。 「あ、お隣さんですか?」 川島が言うと、赤い光が輝きを増してぼんやりと人影を照らした。明かりが消えると同時にまた優しげな声がした。
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