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人魚は幸福だったと云う。
元来、欧州の考えでは人魚や精霊のような存在は死んだら何も残らないものらしい。
人間は死んだら身体を、家族を、友達を、そして生きた証――魂を遺す。
だが、精霊たちはなにも遺さない。まっさらな魂は〝この世〟という不純物を取り込むことなく、ただただ存在し消滅していく。
そんな彼女が〝恋〟という感情を取り込んでこの世の証として〝泡〟を遺した。
水面の向こうと繋がりを持った彼女は、その印を海に刻んだ。
このことはきっと彼女にとって〝奇跡〟だったのだ。
だが、人とそう変わらない願いを抱いた彼女は泡となることしかできなかった。例えそれが唯一の証だとしても、それは儚く、脆いものだ。
彼女の恋焦がれ悶えた気持ちは、その程度のことしかできなかったのだ。
深く暗い夜の世界で暮らしていた彼女が光を求めることすら儚い願いなのならば、きっと昼の光溢れた世界に暮らす私たちの抱く〝願い〟など所詮泡にならず消えてゆくのだろう。
後から後から、泉のようにこんこんとあふれ出る感情を、両手一杯で必死に受けとめながら。
私は、便箋を、天空に、投げた。
風に乗ることもなく、ただ空気の抵抗に合いながら、白はゆっくりと水色に線を描きながら落ち、そして、海と一緒になった。
海はゆうらりと私の気持ちを呑みこんでゆく。彼女に想いを馳せながら、私は呟いた。
きっとあれは泡にもならずしだいに深い深い海に消えてゆくのだろう。
暗い暗い光の届かない夜の世界へと。
海の濃紺が白磁を染めてゆき、そして消滅してゆく。さわあ、と波が優しくしなやかな両手で包み込み、そしてそれは海になる。
想像して、私は息をひとつ吐き、そして大海に背を向け一歩踏み出した。
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