檸檬の残滓

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 関本義久は恋人のミチが作るおにぎりが嫌いである。二人は一緒に六畳一間のアパートで暮らしている。朝食は毎日ミチが作り、彼女が出勤した後に義久はようやく起きるのである。  ちゃぶ台の上にはおにぎりと五百円玉があった。五百円玉は昼食のためのものだ。いつもの光景だ。  義久は日焼けのない手で硬貨だけ掴み家を出た。すぐに湿り気を含んだ風がまつわり、不快に感じた。彼はいつも五百円で朝昼の兼食をとる。  徒歩でしばらくのところのコンビニに入る。湿気のない空気が心地よい。柱にかかっている時計を見ると「13:05Fri」とある。この時刻はミチの勤め先の昼休みである。義久は「しまった」と思った。 「ああ、義久。よかった。会えたね」  入口には汗をたっぷりかいたミチがいた。だんごっぱなに汗の玉が乗っている。墨と糊、そして安っぽいレモンの臭いがした。 「おにぎりどうだった? 今日は大奮発しておかか入れたんだよ」 「ああ、うん」  適当に濁すほかなかった。ミチは会話もそこそこに惣菜のコーナーに向かった。白飯だけは自宅から詰めて持ってきて、金曜だけコンビニのオカズを買う。それが彼女にとって唯一の楽しみらしい。  ミチは印刷所に勤め、機械が止まったり紙の送り出しに無理があるときに手を入れる。そのような仕事をしている。それに加え暇なときは少部数発行の広告や冊子、同人誌の糊付けをしている。これは歩合制で毎週金曜に給金が出る。これがミチのオカズとなり義久の小遣いになる。  毎日の業務がそうだからミチは体中から墨と糊の臭いがする。手だけはそれを打ち消そうとミチは必要以上に手を洗った。それがかえって悪臭となっていることに彼女は気づいていない。家で使っている石鹸も職場の石鹸も社長の奥さんの手作りらしく、安っぽいレモンの臭いがするのである。ミチは「タダでたくさんもらえた」と嬉々としていたが、義久はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。  ふとミチを見ると砂肝に手を伸ばしているところであった。太く、深いしわが刻まれ、黄ばんだ手だ。彼女の父は宮城の出身で、その血を継いだ彼女も色白であったが、それがかえって彼女の手を、あたかも別の生物の手を継いだように見せていた。
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