通学路

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坂の中腹に座り込んだまま煙草を取り出し火をつけた。 煙草の先端からあがる煙はゆらゆらと揺れて、海の底に住むクラゲや磯巾着などの無脊椎動物の一種に見える。 煙でできたその生物は、煙草の上でしばらく身体をくねらせると、風に吹かれて暗い冬の空に同化した。 僕はその煙を美しいと思ったが、自由で単純に空を浮遊するそれが嫉ましくも思え、そんな自由な煙をどこかに閉じ込めてしまいたくなった。 煙草の箱を包んでいる透明なセロハンを指で引き抜くと、煙草を深く吸ってから、その中に煙を吹き込み、手の平で蓋をした。 閉じ込められた煙は、魚籠の中にいる魚のように出口を探して彷徨っている。 分厚い雲の隙間から顔を覗かせた月の灯りがセロハンを透過する。 月明かりに照らされた煙は動くことをやめて、うっすらとセロハンに張りついている。 もうクラゲでも磯巾着でも魚籠の中の魚でもなく、煙は煙でしかなかった。 僕がセロハンを覆っていた手を少しずらすと、死んでいた煙は息を吹き返し出口へ向かい泳ぎだし風に吹かれて消えた。 僕は深く溜息をつく。 白い息は生物にはならずにそのまま消滅した。 実家には帰りたくなかった。 実家には父親の匂いがする。 ―――血と肉の腐りかけた匂いだ。 立ち上がると僕は携帯電話を取出し、1・1・0とボタンを押し発信した。 すぐに呼び出しのコール音が聞こえる。 最後にウエハラの演奏が聴きたかったが、ユーフォニウムの音色は、暗く厚い塀の奥までは届かないだろう。
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