68人が本棚に入れています
本棚に追加
運転手に捨て台詞代わりの舌打ちで反撃してから、僕はあわててバスを降りた。距離を開けすぎて見失っては大変だ。後ろでバスの扉が閉まる音がして、続いてクラクションがひとつ鳴った。余計なことをするなじじい。うんざりして振り返ると、運転手は親指を立て、下手くそなウインクをしていた。失笑した。僕はシッシッと手で追い払うジェスチャーをした。帰れ。運転手は豪快に笑いながら去って行った。事故ってしまえ。…でも、悪くないなと思ってしまった。運転手と思わぬ絆を築いた後、急いで彼女の姿を探すと、どこにもいなかった。さっきまでの可愛らしい気持ちが一転、運転手への殺意が僕を支配した。何が、「ウマクヤレヨ」、だ。お前のせいでぶち壊しなんだけど。僕はおろおろとその場を歩きまわった。まだ遠くには行っていないはずだ。なんとしても彼女を見つけなければ。閑散とした港には、潮の香りが漂うだけで、人影がない。もしかして、彼女は幻?それとも浮雲と同じ幽霊だったのか?それは困る…。ちょっぴり泣きそうになる僕の耳に、聞き覚えのある流水音が聞こえた。音のする方向を見ると、漁港の人達専用の簡易トイレがあった。人が出て来る気配がしたので、慌てて近くの電柱に隠れる。電柱に隠れるなんて、ストーカーかドラマの中の刑事くらいじゃないのかな。どちらかというとストーカー寄りの僕は、息を詰めてトイレのドアを見守った。ノブが廻って、出てきたのはやはり彼女だった。その時の僕の安心といったら、彗星衝突を免れたムーミン谷の人々のそれより勝っていたに違いない。彼女は兎みたいに赤くなった目をこすりながら、よろよろと頼りない足取りだった。口元がかなり濡れている。吐いたのかもしれない。彼女の吐瀉物を思って、僕は少し興奮した。誰に指摘されるまでもなく、僕は気色悪い。それは認める。彼女は覚束ない足取りで波止場の淵まで歩くと、そこで立ちすくんでしまった。そのまま動かない。僕は恐怖と期待を込めて彼女の背中を一心に見詰めた。死ぬのかな、死ぬのかな。自殺するつもりなのだろうか。それが、喪失の末に導きだした彼女の選択なのだ。名前も知らないままに喪うのは寂しかったけれど、彼女がそちらへ逝くのなら、僕もそうしようと思った。そうすれば、一緒だ。一緒なのだ。
最初のコメントを投稿しよう!