辺境遠征(前編)

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「滅多に少佐殿のような上官がお見えになることがないので、駐屯地には簡素な宿舎しか備わっておりません。この地域ではヤラネの干し草を敷いた寝床が主流でして、宿舎の寝台も同じ作りになっているのです。村に着いたら手伝いの者に言って、少佐殿用に綿敷を用意させます。それから……」 「いやいや、構わないよ」  グリンデルが最後まで言い終わらないうちに、ワルトは手を上げて制した。 「特別扱いは性に合わないんでね。皆と同じにしておいてくれ。ヤラネの寝床だって、板張りの荷台に座って寝るのに比べればずっとマシだよ」  ワルトは頭の後ろに手を組むと、再び荷台の板に寄りかかった。  暗くてもうよく見えないが、薄暗いランタンの明かりに照らされた兵士達の顔は、前方に向けられているようだ。  夜空の星くらいに小さかった村の明かりは、次第に大きくなっていく。 「さあ、明日からがやっと仕事だ」  ワルトは独りごちると、目を閉じた。  馬車の脇を夜風が再び吹き去っていく。  いつの間にか空は雲に覆(おお)われて、辺りはいっそう暗くなっていた。  やがて、雨がぽつり、ぽつりと降りはじめた。 ******************************  翌朝、ワルトは一人で村の駐屯地の裏手にある小高い丘に向かった。  丘を覆う草は、久しぶりの雨に打たれて緑の色みを濃くしている。  水気を含んだ赤茶色の土が、黒い軍靴にこびりつく。丘を登っていくワルトの黒髪を、小降りの雨がしっとりと濡らしていった。  丘の頂に一本だけぽつんと生えたカナーの木の下まで来ると、ワルトは足を止めた。  そして光沢のある葉を繁らせた木を見上げ、右手を顔の前にすっと差し出した。  すると。  木の細い枝先から、一羽の鳥が舞い降りてきた。  全身を覆う羽は黒一色。大人の拳(こぶし)ほどの大きさをした体から生えた黒い脚の片方には、銀の足環がついている。
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