第1章

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第1章

夢を見ていたような気がする。 だけど何の夢だったか目が覚めた時にはもう忘れていた。 もちろんそんなことはとるに足らないことだしそれよりも重大なことは、今が9時5分前だということだ。 5分で会社に着く方法を少しだけ考え、すぐに諦めてキッチンに顔を出した。 「お母さん」 流しに向かって何かをしている母紀子の背中に声をかける。すると彼女の肩が一瞬強張り、それから恐る恐るといった体でこちらを振り返った。 「あんたそれ、何の真似」 何のって… 「寝坊…」 「寝坊?何寝ぼけたこと言ってんのこんな早く起きてきて。しかも珍しく帰ってきたと思ったらお母さんなんて呼んじゃって気持ち悪い。お金なんか貸せないわよ」 話の内容が全く理解できず、ばかのように突っ立っている私を気にもとめずに母紀子は捲し立てる。 「あ、ご飯食べるわよね。久しぶりだからあんたの好きな卵焼き作ったけど」 「久しぶり…?」 「だってこの前来たの3ヶ月くらい前じゃない。チーズ入り」 「は、チー」 「卵焼き!」 頭が混乱してきた。 私は生まれてから25歳になる今日まで実家暮らしだし、母紀子のことはお母さんとしか呼んだことがない。 そのごく当たり前の認識を、今朝の母紀子はことごとく覆そうとしているみたいだ。 いったい何のためにそんな嘘をつくのか。 「なにぼさっとしてんの?早く顔洗ってきなさいよ。なにそのきったないヒゲ」 ひ 「ヒゲ!?」 ヒゲって、それは… 無意識に顎を触っていた。そして血の気が引いた。洗面所に駆け込んで冷たい水で顔を洗い、ゆっくりと目をあげる。今まで生きてきた中で一番驚いた。ぶっちぎりのトップ。 目の前の鏡には、見知らぬ男が映っていた。人生最大の驚愕に見舞われた男の顔が。
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