第1章

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母紀子と顔を付き合わせて話し込むのも何かボロを出しそうで不安になってきたから、放り出してあった服をひたすら無心に身に付けると逃げるように家を出た。 持ち物はジーパンのポケットにむき出しのまま入れられた数枚の札と見知らぬ鍵と携帯電話。 財布すらなかった。 いったいどういう人なんだろうこの人は。 カバンを持たない男は結構好みだが財布くらいは持っていてくれてもいいと思う。 携帯、電池ないし。 この人の彼女はきっと苦労するだろうな。 とぼとぼ歩きながら母紀子からさりげなさを装ってなんとか聞き出した情報を反芻した。 名前は修二。世田谷区在住。最寄りは小田急線下北沢駅。都会だ。 建物はグロリア下北沢なんて計り知れない名前だが、どうせボロアパートなんだろう。 なんか貧乏そうだし。 職業は聞けなかった。平日にふらふらしていることを親に咎められない成人男子なんて、ろくなもんじゃないだろう。 フリーターか留年しまくりの大学生か、よくて大学院生とか。 なんかとにかく、怖すぎて聞けなかった。 ていうか。 記憶喪失じゃんこれ。 立ち止まり、無意味に空を見上げ、そしてはっとする。 記憶喪失だって、性別くらいわかるはず。 再び俯いた。 平日の真っ昼間、住宅街で不審な動きをする男を主婦らしき女やサラリーマンが怪訝な顔で通りすぎていく。 あのサラリーマンは、昨日もサラリーマンで。 あの主婦は、昨日もだれかの奥さんで。 みんな、自分が誰かちゃんと知っている。 自分が男か女か、考えるまでもなくわかってる。 わからないのは私だけなんだ。 誰のものだかわからない足を眺める。 どこへ行けばいいのかもわからなかった。
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