銀河の聲

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 もはやどこを歩いてるのかわからなかった。  時間もわからなかった。  路地から路地へ歩けども歩けども似たような家が並ぶばかりだ。  足は痛んでいる。坂道を上り続けているせいでもうずっと前から息は上がりっぱなしだ。  追うべき者もなくなった今、何のために歩いているのかわからなかった。  わからなかったが、歩くのを辞めたくはなかった。  手にあったはずの弁当とビールの袋はなくなっていた。  どうやら、先ほど酔っ払いの男を支えたときに、道路に置いて、そのまま置き忘れてきたようだ。  今日に限って奮発して買った弁当とビールだったが、置き忘れて、置き忘れられて、生きていくということはそういうことなのかもしれない。置き忘れた悔いと、置き忘れられた痛みとを、眼前の光景を眺めて、ときに誤魔化し、ときに忘れ、諦めたことにして、ひたすら先を行くのみなのかもしれない。  ゆるやかだがどこまでも続くように感じるダラダラとした上がり勾配が、唐突に平らになって終わり、ふと目を上げると、そこには、大きな団地が広がっていた。  丘陵を切り開いて建てたのだろう。そこだけクレーターのように抉られている平地に、直方体の、同じ大きさ同じ顔をした巨大な建造物たちが、重い夜の底で、そろって同じ方角を見据えていた。  びっしりと並ぶ同じ形の黒い目鼻。  そこには同じ数だけの家族、人の数だけの時間が、宿っているということだった。  灯りがついている窓。  暗い窓。  厚いカーテンの隙間からシャンデリアのような照明の端を覗かせ、暖かい光を漏らしている窓。  窓、窓、窓、窓、窓、窓、窓。  振り返ることなくバスに乗っていったあの女。  暗い階段に吸い込まれていった老人の背。  いつの間にかいなくなっていた酔っ払いのサラリーマン。彼らのように。   あまたの人々の生活と、あまたの人々の人生とを腹一杯に飲み込んで、冷たく平然と並ぶ巨大な墓石群よ。  蜂の巣のようにひしめきあい、地上を覆う家々の灯火よ。  顔が無くても、玩具のようであっても、無機質な岩塊のように見えても、人の日々の営みは確として在り、一時も滞ることなく一時の淀みも許されずに、在り続け、流れ続けている。  春のまだ冷たい透き通るような夜風の中で、高台から団地、そしてその下の裾野に遠くまで広がる街の灯を見つめていた。
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