はまなすの頃

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はまなすの実を海に投げては遊び、砂浜に文字を書いては消した。 ふたりだけの青空の下、波の音。 棒倒しに飽きると、広史は、岩場へ移動した。 「蟹や」 「コメツキガニやな。」 「あれは?」 「うわ、アオウミウシや」 「気持ち悪いなぁ」 「綺麗やん。こいつなぁ、これでも貝なんやで」 「貝、ないやん」 「進化の過程で退化してもうたんやね、面白いやろ?」 「気持ち悪いわ」 兄はなんでも良く知っていた。 花の名前、魚の名前、干潮について、雲について、岩について。 それらを弟に逐一説明する時の兄の顔は、畏まった学校の顔でも、怯えている家の顔でもなく、 無邪気で、少し得意そうな笑顔だった。 「海の向う、ってどんなんかなぁ」 ふと、水平線に気を留めた弟に、秀一は 「どんなんやろなぁ」 と、隣に立って、同じく水平線を見詰めた。 会話を止めると、海の向うから見知らぬ音がした。 「僕、ほんまは、学者になりたいねん」 波の音に紛れて、兄が呟いた。 彼は海の彼方を見続けていた。 「海の向うで、一杯勉強して、研究して、学者になりたいねん」 遠い目で未来を見詰める彼は、やっぱり綺麗だった。 そして哀しかった。
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