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 若い男は、ひたすらに走っていた。  午前七時二十分。黒いスーツを着た二十代半ばのサラリーマンだ。お盆休みにクリーニングに出したスーツを汗で濡らし、磨いたばかりの革靴を砂で汚している。だが彼はそんなことを気にも留めていなかった。乱立する高層ビルとさざめく人混みの間を縫うようにしてひた走る。頭にたった一人だけを思い浮かべて。 ◆◆◆◆ 「麻奈」  午前八時三十分。四十代を間近に控えた母親は、クレヨン片手にお絵描きを楽しんでいた娘に呼びかけた。「どうしたの、ママ?」よほど熱中しているのか、娘は声だけで母親に問いかける。「教えてあげるから、ちょっとおいで」  母親の言葉に、ようやく娘は顔を上げた。あどけない、まだ幼稚園にも行ってないような年頃だ。未練がましく描きかけの絵と数秒にらめっこしてから母親の元へ走り寄った。「ママ、どこか痛いの?」  三歳になったばかりの娘は、母親がどうして泣きそうな顔で自分を見ているのか分からなかった。どこか怪我してるのかな。大丈夫? と、もう一度問いかける。応えはなかった。代わりに、母親は娘の目の高さに合わせてしゃがみ、細くて柔らかな髪を撫でてやりながら言った。「ねぇ、麻奈。今から海に行こうか」
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