握手

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上野公園に古くからある西洋料理店へ、ルロイ修道士は時間どおりにやって来た。桜の花はもうとうに散って、葉桜にはまだ間があって、そのうえ動物園はお休みで、店の中は気の毒になるぐらいすいている。いすから立って手を振って知らせると、ルロイ修道士は、「呼び出したりしてすみませんね。」と達者な日本語で声をかけながら、こっちへ寄ってきた。ルロイ修道士が日本の土を踏んだのは第二次大戦直前の昭和十五年の春、それからずっと日本暮らしだから、彼の日本語には年季が入っている。「今度故郷(クニ)に帰ることになりました。カナダの本部修道院で畑いじりでもしてのんびり暮らしましょう。さよならを言うために、こうして皆さんに会って回っているんですよ。しばらくでした。」 ルロイ修道士は大きな手を差し出してきた。その手を見て顔をしかめたのは、光ヶ丘天使園の子供たちの間でささやかれていた「天使の十戒」を頭に浮かべたせいである。中学三年の秋から高校を卒業するまでの三年半、私はルロイ修道士が園長を務める児童養護施設の厄介になっていたが、そこには幾つかの「べからず集」があった。
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