叔父子の誕生

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 崇徳天皇は御父、鳥羽天皇と御母、中宮・藤原璋子の第一皇子として元永二年(1119)にご誕生なさいました。  ご誕生翌月の六月十九日に親王宣下をお受けになり、保安四年(1123)正月二十八日に皇太子となられ、即日践祚なさり第七十五代天皇におなりになりました。  御父・鳥羽天皇は皇子であらせられた頃から崇徳天皇を疎んじておられたと言われています。  崇徳天皇の御母・藤原璋子は幼少で父を亡くすと、白河法皇の手元に引き取られ、法皇の寵愛深く“祇園女御”と呼ばれた女性との間で養育され、法皇が代父とおなりになり、永久五年(1117)に鳥羽天皇に入内した女性です。  『故事談』には白河法皇と待賢門院(藤原璋子)が密通して崇徳天皇がおできになられた為、御父・鳥羽天皇は崇徳天皇を“叔父子”とお呼びになり忌み嫌っておいでであったと記していますが、その真偽については不明であり、断言できる確実な史料は確認できません。  もし崇徳天皇のご在世当時から、実しやかに“叔父子”と言う言葉が囁かれていたなら、崇徳天皇は物心がおつきになられた頃から、忌まわしい言葉に付き纏われる宿命を背負われてご成長なさった事になります。  保元、平治の乱の後、囁き出された“叔父子”崇徳上皇の怨霊。  それは明治維新の頃になっても、人心に恐怖の影を過らせるほどの怨みの念として認識されていたものでした。  “叔父子”と呼ばれる宿命を背負われて、この世にお生まれになり、死後は“怨霊”として、人々に恐怖の影を与える…  そのどちらも、崇徳上皇御自らの預かり知らないところに因を持つ肩書きのように感じられて、もし言い伝えられているように“叔父子”と言う囁きをご存知であられた御生涯を思うとき、「怨霊遺恨も然も有りなん」と、私は不敬に僭越ながらも沸き起こるお痛わしさを拭うことができません。  
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