叔父子の誕生

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 上皇として院政を摂るためには、天皇の父であることが大前提でした。  故に譲位する相手が“皇太子”か“皇太弟”かの文言の違いには重要な意味が発生します。  譲位した相手が事実上は養子の息子であっても、譲位の宣命に“皇太弟”と記されている限り、崇徳天皇は御弟に譲位なさったこととなり、上皇とおなりになっても院政を摂れる可能性は絶望的なものとなります。 “弟”と“子”のたった一字の違いがどれほど大きな意味を持つか知っていたはずの宮廷役人の作成した書類にも関わらず、わざわざ崇徳天皇の養子となった体仁親王への譲位を“皇太子”ではなく“皇太弟”と記されていた事実。  重要公文書である宣命が単純なミスを見過ごされる不自然さ。  “皇太子”ではない“皇太弟”に譲位すれば、崇徳天皇の上皇としての後の人世に大きな違いが生じることを全ての人々は解りながら、そのまま押し切った状況。  これほどの偶然が重なれば、何らかの作為的背後があったと疑うのが自然なのではないでしょうか。  ――騙したな!    崇徳天皇の御心の内に、そのようなお気持ちが渦巻いたとしても不思議ではありません。  譲位を迫り、朝廷から実質的に追い出すという御父・鳥羽上皇の力業は、今まで不明瞭な形でしかなかった不信を崇徳上皇の中に明確に浮き上がらせました。  ――御父上は私を慈しむお気持ちなど全くお持ちではないのだ。  ああ!そうか。私は父上の御胤ではないのだ。“叔父子”なのだ! 崇徳天皇のお胸に遺恨の灯が点りました。  
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