《保元の乱》

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《保元の乱》

 鳥羽上皇崩御の翌日、保元元年(1156)七月二日夕刻、東三条邸に崇徳上皇方の武士が立て籠るに至り、皇位継承に遺恨を持つ崇徳上皇と後白河天皇の対立は一触即発の状態となる。  そして七月十一日の早暁、禁中守護に伺候していた後白河天皇方の源義朝は手勢二百騎を率いて大炊御門通から、源義康は百余騎で近衛方面、平清盛が三百余騎で二条方面から、崇徳上皇方が立て籠る白河北殿に攻め寄せた。  しかし形勢は後白河天皇方に圧倒的優勢で午前8時頃、白河北殿に火を掛けられた崇徳上皇方の敗走で、呆気なく勝敗が決まる。  洛中が戦場となった有り様を見て、九条家出身の慈円は  ――保元元年七月二日、  鳥羽院ウセサセ給ヒテ後  日本国ノ乱逆ト云フ  コトハヲコリテ後  ムサノ世ニナリニケル  ―― と著書『愚管抄』の中で、その感想を述べている。  まさに以降、世の流れは公卿貴族だけを中心とする王朝社会から―ムサノ世―、“武者の世”へと移ってゆくのである。      
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