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一章
閑静な住宅街、暗い夜道。
街灯が仄かに照らす道を走り抜ける一つの人影が、息を弾ませていた。
その顔に浮かんでいたのは恐怖。頭の後ろで綺麗に結っていた髪は解け、波打っては月の光を反射している。
彼女は今、逃げていた。
何から? ……わからない。
しかし逃げなければならなかった。
何故? ……死なないために。
彼女は何かに追われていた。誰かではなく、得体の知れない何かに。
彼女が確認できたのは、凶悪な煌きを灯した凶器だけ。包丁なのか銃なのか、あるいは他の何かなのかそれすらもわからない。
ただ逃げなければならないと、それだけは本能が確固たるものとして感じ取っていた。
故に走っていた。逃げようとしていた。戸惑い、狼狽えていた。
途中、曲がり角を過ぎた辺りで後ろを振り返った。そこにはミラーと街灯があるだけで、恐ろしい凶器の光も自分以外の足音もなかった。深々とした静寂に包まれた、いつもの夜の帳しかない。
……大丈夫、もう追って来てない。
彼女は安心して走りを緩めて立ち止まった。慣れない運動に呼吸が乱れ、肩が激しく上下し、心臓が早鐘を打つ。
胸に手を当て、忙しなく脈打つ鼓動の高鳴りを収めようとする。けれど、動悸は治まるどころかますます早まっていった。
――彼女は大きな勘違いをしていた。自身の心臓が、強く胸を叩く理由を彼女は見誤っていた。
恋する乙女のように高鳴る鼓動は、間近に迫る『死』を感じ取っていたのだ。
しかし彼女は気付かない。逃げ切ったと思い、塀に背を預けて呼吸を整えることに一心になっていた。
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