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奇妙な緊張感と期待を胸に目をやった腕時計の針が刺すのは、午後四時五十五分。
歩道橋の上に一人立ち尽くす僕の足元では、茶色く変色した花束が乾いた音を立てている。
本来ならば、彼のあんな話を信じたりはしなかっただろう。彼は話に尾ひれをつける癖があったし、場を盛り上げる為なら話をでっち上げることなんて珍しくもないのだ。
しかし今こうして事実を確めにここに居るのは、彼の言っていだ光景゙に見覚えがあったからだ。
――息を飲む程に美しい夕焼け空。
そんな中、歩道橋にいる僕が目にした彼女の背中。
明るめの茶色の髪が陽の光を浴びながら、絹のように揺れている。
ふいに彼女が此方へ顔を向けると、涙を溜めた大きな瞳と長いまつ毛に取り残された小さな雫が、静かに輝いて――――
それがいつのことだったかは覚えてはいない。もしかしたら夢の中の出来事だったかもしれない。だが曖昧な記憶の中に沈むその残像に度々胸を締め付けられていたのだ。
(恐らく、僕は彼女のことを……)
ぽろろん、ぽろろ――
夕焼け小焼け。この地域におけるゆっくりとしたチャイムの音が鳴り響く。
時間だ。
僕は深呼吸をして、辺りを見渡す。
しかし目に映るのは、どこまでも広がる夕焼けと、長い一筋の僕の影があるだけ。
何も変わったことなんて見られない。
やはり噂話なんてそんなものか、と思い帰ろうとした。
その時、突然気温が下がったような感覚に襲われた。
ぱた……
ぱた……
それと同時に背後で静かに響く足音。
嫌な汗が流れるのと異常に速くなった心臓の鼓動を感じながら、思い切って振り返る。
しかしそこには誰もいない。
大きく息を吐いて、視線を元に戻す。
彼女は、そこにいた。
青白すぎる肌に半透明な身体。
彼女は明らかにこの世の者ではなかった。
彼女の為に供えられた花には目もくれず、ただただ夕陽を眺めている。
真正面から陽の光を浴びても、光を映すことのない虚ろな瞳。その足元には影もできない。
橙色に染まっていく世界の中で、彼女はただ一人取り残されていた。
その奇妙な光景は、恐ろしい程美しく感じられた。
(ああ……やはり、゙彼女゙だ)
僕の記憶の中の残像。
僕だけが知る彼女の生前のワンシーン。
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