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「着いたぞ。降りよう」
「ここは?」
父親は少年の質問に答えずに自動車を降りて歩き出した。まだ車内にいる少年が目だけで追うと、父親は草むらの中に足を踏み入れていく。
草むらは昆虫の楽園と相場が決まっている。そう知っている少年は好奇心をくすぐられ、自動車から降りて父親の後を追う。
またごうとした水路にふと視線を落とすと、水路のふちの草の中に動く赤色が見えた。
立ち止まった少年は足を曲げてしゃがみこみ、赤い何かを観察する。
「かに?」
少年が見つけたのは、淡い赤に黄色い足の小さな蟹。
水棲生物であるにも関わらず、小さな蟹は葉っぱや茎の中を横歩きで移動していく。
水を離れて、どこにいくのかな?
「どうした?なんか落としたか?」
蟹の行く末を心配する少年に父親が声をかけた。少年は「なんでもない」と返して立ち上がり、父親の側に歩いていく。
細い水路を超えた先の地面は、厚い布団のように盛られた丸い葉っぱと細い茎で覆われていた。
その隙間から見える若い緑色の雑草は、誰が見ても分かる昆虫の住みか。
少年が鼻で息を吸うと、都会には無かった深く濃い緑の匂い。なぜかは分からないが、わずかに排泄物のような匂いも混じっている。
緑に混ざる謎の茶色い匂いに嫌悪感を覚えた少年は、階段を駆け降りるお姫様のようにズボンを引っ張り上げ、白い靴下を露出させて歩いた。
「見てみろユズル」
父親の背中からの言葉を聞いて、地面の緑に夢中だった少年は視線を上げた。
何となく ぼけて見える白い壁には植物が張り付いていて、人の手入れがなされていない事が分かる。
瓦ではない波打つ屋根は、時の流れを感じる赤と白。どちらが元々の色なのか、少年には予測が付かない。
父親が少年に見せたのは、何十年も放置されて廃屋になった民家だった。
「なにこれ」
「去年も来たろ?覚えてないか」
父親は、この廃屋は俺が中学生の頃まで暮らしていた家で、三十年以上放置されている、と続けた。
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