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「……」
降り注ぐ雨は止むことなく、天が下を洗う。
規則正しく響く雨足の音--だが、それは不意に破られることになる。
ぴちゃりと濡れた地を踏む音--それと共に、老人は現れた。
雨から身を守る為だろう。菅笠を目深に被り、合羽を身に纏っている。
だがそれをも気にかけぬといった様子で、老人は白髪を靡かせ、倒れ伏したまま動かぬ少年のもとへと歩を進める。
「……」
その手と足が濡れるのにはまるで構わず、俯せに倒れた少年の頭と胴を抱え上げ、顔を覗き込む。
降りしきる雨によって少年の体温は奪われ、唇そのものの色もまた青く染まっていた。
--と、それと同時に、少年の瞼が微かに動いた。
開いたその中から覗く色も焦点も宿さぬ瞳。
視線の先には老人がいる。だが少年は彼を見てはいまい。
だがやがて少年は口をゆっくりと開く。それに降り注ぐであろう雨粒は老人の笠に遮られていた。
「……あ……」
微かに喉を震わせ、少年は呟く。ただの譫言(ウワゴト)ではなく、意味のある何かの言葉であろうことは、先程よりもはっきりと実感出来るモノだった。
それは恐らくは老人に向けられたモノではあるまい。だがそれでも、少年はか細い声で、ぼやけた視界の中の何かに呼びかける。
「と……さ……」
少年の瞳は濡れていた。叩き付ける雨天だったが、彼のそれはまだ真新しい。
「……う……」
ひとしきり呟くと、彼は再び瞳を閉じた。
まるで親の腕の中で眠るように--微かな寝息を立てていた。
老人はその目元を優しく指でなぞる。
彼の表情もまた、複雑なモノだった。
安堵、悔恨、愁心、憎悪、贖罪--それらの詰まったような、一言で表すには余りにも重い。
「……」
最後まで一つも言葉を発することなく、老人は少年を抱き抱え、やがて歩き出した。
いや、その唇は動いていた。だが、そこからの音は雨と彼の足音に掻き消されたのだろう。
--すまぬ。
誰にも聞こえることのない、老人--マスター、『朱雀』の懺悔だった。
その瞬間が運命の分岐であり、もう一つの悲惨な『If』を辿った男がいる。
だがそれを知る者はこの場にはいなかった。
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