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チビのこと
長男が実家の玄関に置いてある犬の置物を見て『どうしてここにあるの?』と、母に聞いたことがある。その時母は『チビがいるのよ』と答えた。
チビとはだいぶ容姿が違うのだが、昔犬を飼っていた。名はチビ、柴犬の雄だった。何年も前に亡くなったのだが、僕にとって青春期を共に過ごした掛け替えのない友。『チビがいるのよ』という母の思いは、よく分かる。
チビが我が家へやって来たのは、僕が高校1年の春。念願の犬が飼える事になって、僕は嬉しかった。僕が幼稚園の頃から願っていた事だ。
幼稚園当時、よく市中には野良犬がいた(かなり前)。可愛そうに思い家に連れて帰えると、その度に、父から怒られた。当時は、父が飲食店をしていたせいもあるのだろうが『連れてくるな! 元いた場所へ戻してきなさい』と言われるのは辛かった。僕は半べそを掻きながら河原へ行き、犬を置き去りにしてこなければならなかったのだ。でも、僕に慣れた犬は簡単には離れようとはしない。『来るな!』と、叫んでみても、僕の後をついてきた。走ったり、立ち止まって追い払ったりしても、ついて来た。どうしようもなくなり、僕は犬を抱きしめて、泣いてしまう。これがいつものパターン。母が心配で僕の後を付いてきているので、僕を慰めて終了。こんな流れだった。そんな母が会社の同僚から、生まれて間もない仔犬を貰ってきてくれたのだった。
チビという名は、後からなんとなくついた名だ。とてもちっちゃかった。父の長靴に入れてみると、すっぽり中に入った。とても可愛いくて、家族みんながチビと戯れた。あの頃携帯があれば、手軽に写真を撮っていただろう。その頃の写真が、何も残っていないのが残念だ。
玄関で一週間ほど飼ったが『外で飼え』と、父が言い出し、庭の杭に繋いだこともある。でも無駄だった。家の中に入ろうとするチビを誰も拒めず、ほどなくして家の中の住人になった。
チビが成長してくると、散歩に連れ出すようになった。どっちが連れて出るかで、妹とよく争ったが、次第に散歩の役目は祖母が担うようになった。
この頃になると、小型犬とはいえ、もう仔犬ではないので、いろんな問題が発生していた。特に大きな問題は、家が汚れることだった。そのため、再び外で飼うという問題が浮上した。しかし、僕は断固反対し、綺麗にしようと、度々チビを風呂場で洗った。シャンプーでしっかりと泡立て、自分も濡れながらも、しっかり洗い流しタオルで拭き、ドライヤーで乾かした。確かにその時は綺麗になっだが、すぐにまた汚れてしまう。汚れるだけではなく、床や柱が、チビの爪のせいで傷んでもきた。たまりかね た父が、「せめてヒモをつけろ」と言って、玄関の下駄箱の脚にヒモをつけ、それをチビの首輪に繋いだ。
僕は偽善者ではない。世の中のしきたりもよく理解しているつもりだ。だけど、外でヒモに繋がれたチビは、嫌だと思った。まるで人間社会に繋がれたような気がした。都合良く可愛がる人間たち。僕もその一人となってしまうのか・・・。なんて考えたが、チビは自由だった。繋がれたのは玄関の下駄箱の脚。外ではないのだ。しかもヒモは、その後少しずつ長くなっていき、ついには2階の僕の部屋へ入り、ベッドの足下までたどり着ける長さになっていた。誰が長くしていったのかは、覚えていない。多分僕ではなかったと思う。
最後はよぼよぼになって、16年間のペットとしての生涯を終えたチビが、我が家で幸せだったのかどうかは、分からない。ただ、ひとつ言えることは、チビは僕の感情の全てを理解してくれていたと思う。僕の表情から僕の気持ちをしっかりと読みとっていた。
海外へ2年間仕事で行くことになった時、途中で帰国ができない為、出発前日の夜、チビの顔を見つめながら『留守の間、おやじやおふくろ、そして妹とばあちゃんを守ってくれよ』とお願いした。家を遠く離れた南米へ行くので、僕はそれなりの覚悟をしていた。だから別れの言葉と同時にお願いもしたのだ。チビはじっと僕の言葉を聞いていてくれた。
それから2年が過ぎて、僕は帰国した。実家へ帰ったのは、帰国し、所用を済ませた3日後。その時、残念ながら玄関にチビは居なかった。病気も患っていたらしいが、老衰の為、亡くなっていたのだ。会うのを楽しみにしていただけに、僕はとてもショックだった。一目チビを見たかったのに・・・。あの夜が最後となった。
『仕方ない、生き物はいつかは死ぬんだ』という言葉だけでは、涙を止めることはできなかった。チビは、最後まで僕の友達でいてくれた。とても優しい奴だった。
チビの最後は早朝だったらしい。異変に気付いた母が見守る中、玄関のチビは最後に大きな深呼吸をして、息を引き取ったということだ。その日は、ちょうど僕が日本に帰国した日。チビは最後の力を振り絞って、僕との約束を守ってくれたのだった。
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