序章

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 そもそも何故彼女が入れ歯安定剤について考え込んでいるのかというと、彼女のアルバイト先のコンビニに、入れ歯安定剤を買いに来た珍客が現れたからだ。  その老人に応対した彼女が入れ歯安定剤は置いていない旨を説明すると、老人は「客の欲しいものを置いていないとはどういうことじゃ!!」と怒って怒鳴り散らし、訪れていた他のお客様に迷惑を掛けることになってしまったのである。  最終的にはオーナーが老人を言いくるめてお帰り頂いたが、かなり迷惑で不躾な客であったことは確かだ。  それゆえ、謂れのないことで怒鳴り散らされた文句は言えども、彼女がそこまで深く考える必要は……無い筈なのだが。 「そういった客のニーズに対応することが、今後他のコンビニとの差別化をはかる材料になるのかも知れないな、うん。 まずは入れ歯安定剤を始め他のコンビニではなかなか手に入らない商品を取り扱って客層を広げる。 そしてゆくゆくは……」  ……どこからそんな深い話になっていったのかは皆目見当も付かないが、美夜は未だ真剣に考え込んでいる。  傍から見ればかなりどうでも良いその思考は、「明日オーナーに進言してみよう」という止めておいた方が良いかも知れない言葉で締めくくられた。  思考を止めると、美夜は家へ帰ることに集中する。  現在の時刻は深夜十時過ぎ。  美夜のような若い女がひとりで歩くには、少々危険な時間帯だ。  この公園脇の道は比較的住宅街に近いため、街灯もあって明るく、変態が出没するなどの事件も起こったことは無い。  そして何よりも家へ帰る為の近道であるゆえに美夜は愛用しているが、それでも出来ることならば早く通り抜けたいことは事実だった。  はぁ、と美夜が息を吐き出すと、それは白い霧のようになって冷たい空気の中へと溶けてゆく。  それを見届けてから、美夜は歩調を速めた。
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