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「――ねぇったら!」
まだ曲の途中だった。だが、明らかに俺を呼ぶ声に驚き、演奏を止めて顔を上げた。見ると、赤いキャミソールを着た茶髪のショートヘアの女が一人。俺の目の前で屈んで膝を抱えていた。
全く見た事もない顔だった。俺の行動範囲を振り返る。俺が行く場所と言えば大学、クラブ……それとここ錦糸町駅前。しかし、記憶を振り絞るが一致する人はいない。
――もしかして……。
今まで無かった。だから選択肢から自然と消えてしまっていたのだ。それは今の今まで何をしていたかを考えれば容易に思い付く事だった。
「私は杏哩(アンリ)」
俺はただ目を丸くして杏哩と名乗る女を見ていた。只でさえ、弾き語りしている俺に話し掛けて来たのは初めてなのだ。急に名乗られて訳がわからない。
「君、よくここで歌ってるよね」
「え? ああ、うん」
俺の歌なんて誰も聞いちゃいないと思っていた。聴こえる自分の歌声は、実は空気を振動させてはいないのではないかと錯覚させたくらいだ。
勿論、俺自身その事を気にした事は無かった。しかし、俺の歌を聴いていた人が一人でもいた事は、正直なところ少し嬉しかった。
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