26人が本棚に入れています
本棚に追加
確かに、少女の首に熱く脈打つ、赤い血管に食らいつきたい衝動には駆られている。
長らく、食事という食事もしていない。本能は血に飢えている。
しかしながら、セルシムは主人に忠実だ。ましてや、主人の想い人の魂を持つといわれる者に、牙を突き立てられようか。
主人を裏切って、少女から血をすすることは十中八九、完璧に近いほどないだろう。
それが分かっていてイークウォルは続けた。
「傷が塞ぎかけているとはいえ、服や肌についた血の匂いは消えないから。早く洗い流してしまわねば、お前に襲われかねないし」
「旦那様! ご冗談もほどほどに! 本当に色々と誰のせいですか。私には拷問そのものですよ、まったく!! 湯殿はもう用意してございます。旦那様がいつお帰りになってもいいように!」
「なるほど、そうか、セルシム。ありがとう、お前は気が利く」
「ですが、私が入浴させるのは遠慮させていただきますよ。今のままでは、これ以上近づきたくない」
「当たり前だろう? わたし以外に誰が入浴させるというのだ? 仮にも、わたしの物を」
「だ、旦那様。気をつけてくださいよ。その、あのー」
「ふん。そんなことをわたしが望むとでも?」
「……旦那様」
「望んだとて、それは叶えてはいけないことだ。解かっている」
セルシムの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
感情表現豊かな老執事とは反対に、イークウォルは淡々と言葉を紡ぐ。
「約束は果たされた。この娘は、回復したら人里へ帰してやる」
「それでよいのですか? 約束はまだ」
「言うな、セルシム。それ以外、他にどうできる? 命は限りがあるから美しいのだ」
そう言ったイークウォルの目は、セルシムが体を射抜かれると思うほど、強かった。
深海にでも迷い込んでしまったのかと思うほど、暗く、青く、果てしがなかった。
館の主人は少女を抱いたまま、浴室へと消えた。
最初のコメントを投稿しよう!