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「…そうだね、分かった。って言うより紗雪がそういう風に言うの分かってたって感じかな」
淡々としたその言葉を聞いている紗雪の左半分の表情からは、何も感じ取れなかった。
「向こうでさ、精一杯やっておいでよ。それで胸張って帰ってきたとき、もし紗雪の僕に対する気持ちが変わってなかったら、ここに来なよ。僕は、変わらずにここにいるから」
「もし、会えなかったら?」
「奇跡の風が吹くことを祈るだけ」
紗雪は何も言わずに小さく頷くと猪口の中の酒を飲み干した。
「じゃ、さよならの代わりに行ってきますって言ってもいい?」
「うん、気を付けて行っといで」
「あの日、さよならを言わせなかったのは僕がさよならって言いたくなかったから、なんだよね」
「え?」
「いや、独り言。…僕の元に戻ってくる保証なんて全然ないのにね、僕も必死だったのかな」
窓の外の雪を見つめていた客たちは、自分たちが何か特別な席に居合わせたかのように誇らしい姿勢で会話に戻っていた。
「ああ、お二人で最後にいらした夜のことですか?」
「あの時は僕のところに帰ってくるはずって本気で思ってたんだよね。こんなに不安になるなんて想像もしなかった」
目の前の徳利の中の酒はなかなか減らない。空になった猪口に手酌で注ぐのが少し寂しくもある。板前さんの、注ぎましょうか、の仕草に笑って応えた。
「それでも僕にはあの時と同じ表情に見えますよ。変わらず今でも紗雪さんを想い続けている、素敵な空気だと僕は思います」
思いがけない言葉に、照れを隠すかのように翔悟は小さく笑った。
「ありがとう、三年間一人でもここに通い続けて良かったよ」
「まだ待つんですか?」
「うん、僕の気持ちが変わるまでね」
目の前に置かれた楊枝入れの縁をなぞりながら、満足そうに答えた。赤茶色に磨かれたそれは指紋一つついていなく、宝石のように明かりを反射していた。
(そういえば紗雪もよくなぞってたな)
翔悟は夢を追っていた時の自分を思い出していた。
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