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「なんか今日、格別に寒いね。本当に気温上がんの?」
「予報じゃ午後からだって」
レーシングスーツにヘルメット。スタートする準備は完璧に整った翔悟は眩しそうに太陽を睨んだ。すぐ後ろでは幼なじみでもあり親友でもある真澄がマシンのチェックをしている。
「バイク跨がってるとあったかいんだけど、メット取ると耳が切れそうだわ」
「じゃ耳に靴下用のカイロでも貼っとけば?」
翔悟は小さく、それもいいねと呟くと被っていたヘルメットを外し、頭を軽く振った。乱れた髪の毛を整える前の癖。 脱いだヘルメットを真澄に渡しながら翔悟は壁に染み込んでいるオイルの染みを指でなぞった。
このサーキットで走り始めた当初、偶然同じパドックを使うことが続いた。初めてここに足を踏み入れた時、一番最初に目に入った壁の染み。これを見ると自分の居場所を教えてくれるような気がして不思議と気分が落ち着く。まるで小さい頃、家の壁紙に書いたいたずら書きのように。今では希望を出して、ここを使うと決めている。
「この染みってさ、功一さんの時もあったのかな?」
「どうかねぇ。でもさっき聞いた話、本当だと思う?」
「功一さんもこのパドック使い続けたって?どっちでもいいけど、本当だったら良いよな」
天才と呼ばれた二輪のレーサーが事故で命を失ってから一年が経とうとしていた。
杉崎功一は翔悟や真澄の憧れであり、誰よりも可愛がってくれた良い兄貴分といった、世間では使い古された表現がしっくりくる存在だった。
どんな天才でも、どんなに慕われ必要とされている人にも死の瞬間は必ず用意されている。そんな過酷な事実に突然直面させられた。事実を受け止められず、ただ落ち込み、表情も暗くなりがちだった頃を経て、今はそれぞれの人生を自分の力で歩き、功一との出来事を大切な思い出として二人で共有している。
翔悟はレーサーとして、真澄はメカニックとして……お互いにお互いがかけがえのない存在。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。そう言えば、さっきから見てるけど、やっぱり観客席のカメラ持った女の子、お前の姿追ってるよ」
「まさか」
自分の身体さえも透き通ってしまうような青空。翔悟は今ひとつ気温の心配を拭い去れないまま、一瞬だけ空を見上げコースへ出て行った。
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