~センプレ~

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「ありがとうございます」 そう言ってもらっても、どうしてもこの一線だけは越えられない。 「ただいまー」 「あら、おかえり。早く着替えてきなさい」 まだ姿が見えないけど、律子さんが優しく声をかけた。 「ねぇ、あの靴って……」 予想通りの人物だったのか、案の定目が合った瞬間に燦の顔が遠慮なく歪む。 「……いたの」 「すぐ帰るわよ」 私たちの空気には、律子さんも孝文さんも慣れていて今更何も言わない。 「暗いのに危ないでしょう。今日は泊まりなさい」 「芯兄は?」 「まだ帰ってないわよ。燦は早く着替えなさい」 二階に行く足音がいつもよりうるさい。 と言っても、私がいたときはこんな感じだった。 「まだ終電あるし私帰ります」 久しぶりの律子さんの料理を食べられないのは残念だけど、やっぱりいい気分ではない。 孝文さんも何か言いかけたが、 「ダメ」 別の声に再び制された。 「芯、おかえり」 孝文さんが芯さんに向けてグラスを掲げた。 「ただいま。鈴が帰ろうとする前で良かったよ」 「そうなのよ。せっかく帰ってきたのにもう帰るなんて……」 「帰りたいって言うんだから、帰らせればいいじゃん」 着替えた燦が明らかに不機嫌な顔でドアに寄りかかっていた。 「燦」 「別に客じゃないんだし、あんたも帰りたいなら早く帰れば?」 唯一、芯さんの言うことはきくのに私に余程いてほしくないらしい。
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