65人が本棚に入れています
本棚に追加
男は強い痛みを覚悟した。
しかし、目が覚めたときからずっとある鈍い痛みのおかげか。
あるいは、少女が思ったより軽いのか。
想像した痛みはこなかった。
あっ、と少女は何かに気がついたように声を上げ、男に目を合わせると
「ニコニコ、ニー」
少女は歯をだして笑った。
──突飛ばしてやりたい。
そう思っても、男は身体が動かない状態だ。
少女を睨み付け、怒鳴るぐらいしか出来なかった。
いや、実際に男にできたことは、睨み付けることだけだった。
男が文句を言う前に、少女はまた同じ言葉をいう。
「ニコニコ、ニーっ!」
少女が自分に求めるものがわからない。
──決してわかりたくはないが。
だが困ったことに、少女はムキになっていた。
5回、6回目になっても諦める様子は微塵もない。
ほっといておけばいつまでも、いつまでも男の上でやっていそうだ。
どうするべきか。
「コトリちゃん、寝ている人の上に乗っちゃあいけないよ」
男に救いの手が差し伸べられた。
低く落ち着いた男の声。
老人の言葉にコトリと呼ばれた少女は、
はぁ~ぃ、と少し不満そうだったが、存外素直に老人に従い、男から離れて座った。
少女が男の上から退き、老人の姿が目にはいる。
薄くなることなく、白く染まった髪。
皺のせいか、目尻が下がりと恵比寿様のようになる笑顔。
七十歳ぐらいだろうか。
しかし、真っ直ぐに伸びた背中やしっかりした足の動きを見ると、六十代といっても問題ないほどだ。
若い老人。
矛盾した言葉がよく似合う老人だった。
老人は寝ている男の横に座り、目が覚めたようだね、と男に声をかけた。
「初めまして、私は村崎史治と言います。君の名前は何て言うのかな?」
初めまして。
つまり、この史治と名乗った老人はこの男を知らないということになる。
「すまない爺さん、わからないんだ」
「わからない?」
「自分の名前、自分が何者なのか一切わからないんだ」
史治は目を丸くした。
「本当かい? 何も覚えていないのかい?」
「……ああ。信じてもらえないと思うが……」
その言葉を皮切りに、男と史治は神妙な顔をして黙ってしまった。
「………………………………」
「………………………………」
短く、それでいて長い沈黙だった。
最初のコメントを投稿しよう!