逡巡の歌姫

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「シーン32、本番いきまーす」 カッチン! 「おい、待てって!」 素早く伸びた男の腕が、立ち去る女を囲いこむ。 乱暴に引かれた細い肩。 「痛い! 離して!」 手首が軋む。 『っう、まじで痛ぇ……くそぉ、我慢だ、我慢』 使いまわし感を隠せない、低予算ドラマ御用達の収録セット──洋館の踊り場──にて。 背後を壁に塞がれた女の躯を、男の指が這い上がる。 ‘元’売れっ子俳優の、演技に名を借りたセクハラ。 『う? うぉい?! さすがに、調子に乗りすぎだろ!』 カメラの死角で腰を撫で回せとか、台本に書いてないよね? おまけに臭くてやってられん。 私の公式プロフィールに、好きな香水:アリュールって書いてあるのを見たのだろうが…… 瓶ごと浴びたのか? まさか飲み干してないよね? 「この俺から、逃げられるとでも思ったか?」 私のイライラを無視して、大根台詞と大根愛撫が続く、続く、続く、死にさらせボケ! バッチーン! こちらも演技に名を借りて、本気度9割のビンタ(危うく握るとこだったが)を炸裂させた。 「顔を洗って出直すのね」 しかしまぁ、何と言うか、アレだ…… 私の演技だって誉められたもんじゃないけど、ベッタベタ脚本だって、開き直ってしまえば怖いもん無しってか? 「カーット! はい、OK」 でも案の定、一発OK。 痴漢被害のテイク2は勘弁だから、それはそれで良いんだけど、なんだかなぁ。
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