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テーブルの上にステンレスの器が置かれ、中には砕かれた氷がぎっしりと入っている。
器の表面に水滴が浮き出す。
テーブルの前には、黒い皮張りのソファ。
普通の体格の男ならゆったりと座る事ができるくらいの大きさ。
そのソファが先程から軋んでいる。
ソファの上に巨体のちょんまげ男が、座っているためだ。
男は浴衣を着ていた。結われた長髪がびんつけ油の濃い匂いを周囲に放つ。
魔之王、三十五歳。大相撲、肉野江部屋に所属する現役力士・小結である。
薄暗いスナックの店内で魔之王は、鼻唄を歌いながら濃いウィスキーの水割りを一人で飲んでいた。
酔うと先日まで行われていた秋場所で、負け越した事ばかりが頭によぎる。
痺れた思考の中に“引退”の二文字がちらつく。
苦い酒であった。
グラスの底に残っていたウィスキーを一気に喉に流し込む。
喉が熱くなり、そのまま熱いものが胃まで押し寄せる。
胃で弾けたアルコールが、魔之王の思考を今度は奪う。
血液の流れがますます早くなり魔之王の意識が薄くなって行く。
その時、店の扉が開きバーカウンターの中にいたママが
「アニョハセィヨ」
と声を掛けるのが聞こえた。
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